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利用者のコラム

男性 / 20代 / 聴覚障がい


辛かったり思い悩んだ時期

私は『聴覚障がい』…耳が不自由です。

この障がいによって不便なことが沢山ありました。 人それぞれですが「突発性難聴」や、他に色々な病気で聞こえなくなったりする人もいるみたいで、 最近では、「ヘッドホーン難聴」という言葉も生まれだしたとか聞いています。

私は生後3か月で、高熱により耳が聞こえなくなりました。 その中で悲しいことやつらい事や嬉しかったこと等沢山ありました。 まず、困ったことから書きたいと思います。

5歳頃までは普通の幼稚園と発音学校に通っておりました。 朝は普通の幼稚園、昼から発音学校でした。
普通の幼稚園は健常者たちと一緒に遊んだり遠足行ったりしましたが、 その時、困ったことは友達が自分の補聴器を壊した事でした。自身はまだ幼く補聴器の大切さを理解せず、 仕方がなかったとは思いますが、とても困った記憶が残っています。

小学時代に入ってから5年生になるまでの間、小学校に通い「難聴学級」っていう教室で勉強しました。
「難聴学級」とは、耳が不自由な人が勉強するところです。健常者と一緒に勉強するのではなく、 昼休みだけ一緒に給食を食べたりしました。
その当時の自分は、健常者の友達とは全く仲良くなかったので、 いじめられたり補聴器を取り上げられたり隠されたり色々ないじめを受けました。 それが嫌になり、両親に「学校へ行きたくない」と何回も言い続けました。
結局、両親と話し合った結果、別の学校に転校することになりました。

別の学校にいってもいじめを受けるではないだろうか・・・と不安に陥ることもありました。 転校後無事に卒業し、中学校へ入学し困ったことは1つありました。車のクラクションが聞こえず車にぶつかったことがありました。

高校は特別支援学校に入学しました。耳が不自由な人だけ集まって勉強をする学校なので困ったことはありませんでした。 ただ、行き帰りは電車です。帰宅中に九死に一生を経験しました。
駅のホームで歩いている際中に電車の警笛が鳴り、自分は聞こえなかった為、学校の先生に助けてもらいました。 私は無事でしたが、助けてくれた先生が大怪我で肉離れになったことがありました。 こうなったのは自分のせいだなと何回も思ったこともありました。

専攻科も特別支援学校でした。専攻科を卒業し、ついに社会人になり、決まった仕事先で不自由なことが多くあり困ったことばかりでした。
話が通じなくて相手がイラつき口論になったり、聴覚障がいを理解してもらえなかったこともあり、遠くから呼ばれたり、後ろから呼ばれたこともあり、 それに対して分からなかったことも多々あり不満でした。

毎日、出社してもこのようなことばかりで、人間関係がうまくいかずに退職することにしました。

退職してから1年間、アルバイトしながら転職活動をしました。 多くの会社の面接受けるも、耳に障がいがあるために断れたこともありました。

辛さを上回る仲間との絆、喜び

今の自分は特に困ったことはありません。自分にとっては耳が聞こえなくても「目で見る」それだけで十分です。
逆に今までを振り返って嬉しかったことは、手話を覚えてくれたり、ゆっくり話してくれたり等他にも沢山あります。

小学時代、初めて自分と同じ障がいを抱える2人と出会いました。 その聴覚障がいの人は、キュードを使って会話しているところを初めて見ました。 その2人に色々教えてもらい、1ヶ月間勉強し覚えるようになりました。 聴覚障がいの人とキュードで会話できるようになったことがとても嬉しかったです。
聴覚障がいの人だけではなく、クラスの人たちも覚えてくれて、と話したり仲良くなって、外で遊んだりすることも嬉しかったです。

中学校に入っていろんな人と出会いがあり、それに対し不安があるだろうと思っていましたが、 思ったほど不安なことはありませんでした。
クラブ活動は友達に誘われバレー部に入り、 バレー部のメンバーや顧問の先生はとても優しく、障がいのことを理解してくれており、声をかける時は肩を叩いて 「今から練習試合だから向こうのチームに入ろう」と言ってくれました。 中学生活は本当に幸せな3年間でした。

高校時代は特別支援学校に入学しました。周りは手話を使う人だらけでした。 その聴覚障がい者の人が「キューサイン」を使った会話をしていました。それを見て自分は分からなくてついて行けないだろうと 思っていましたが、担当の先生が僕のことを話してくれて聴覚障がい者の人に 「キューサイン」を教えてもらい、「キューサイン」で会話できるようになりました。
クラブ活動はもちろんバレーでした。中学時代のバレー部の時のコミュニケーションと違って、 聴覚障がい者のバレー部は手話でサインを出しゲームプレーを行いました。 試合は特に問題はありませんでした。
高校2年になりセッターとして初めての大阪府内の西代表に選ばれました。 その時は、耳に障がいがあるからみんなについていけないと思い断ろうとしたんですが、 西代表の顧問先生が「耳に障がいなんて関係ない。アタッカーの声が出てもトスを上げるのはお前次第や!」と言われ、 それを聞いた自分は、すごく嬉しかったです。

高校生活、そして専攻科生活が無事に終わって社会人になり、この先はつらいことや苦しいことが沢山あるだろうと 考えながら自分の新たな人生を歩み、険しい壁を乗り越えて頑張って行こうと考えた自分。
仕事で困ったことも多々ありましたが、嬉しかったこともありました。 仕事先では機械関係で危険な仕事だと解り、それを覚悟して従事をしてきました。 コミュニケーションは、普通に会話し、筆談もしてくれて、障がいを理解してくれて、危ない時は肩に叩いて「危ないよー」と話しかけてくれました。
そういうこともされて本当に嬉しかったです。

今、自分はBe Happy就労支援施設でPCの勉強をしています。 入った時はほとんど普通に会話でしたが、しばらくしてスタッフさんも手話を覚えてくれるようになり、 いろんな手話を教えて、手話を使って会話するのも楽しいです。これも自分にとってすごく幸せです。

これから先、色々あるとおもいますが、困ったことやつらい事や苦しいことがあっても険しい壁を乗り越え、 難しいことを考えずに楽しい事や嬉しいことを見つけ最高な生活を過ごしていきたいと思っております。

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